里芋田村磨呂の心理学解説

心理学の本についてその本ができた背景や作者の事もふかぼりしつつ解説していきます。ぜひ紹介した本に興味をもっていただければなーと思っています。

アルフレッド・アドラー著作「なぜ心は病むのか」を読んで①アドラーとはどういう人物だったのか 豆知識編 前編

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前回までのあらすじ

  • アドラーは1916年(46歳)に大戦で軍医として従軍する。
  • その中でアドラーは、共同体感覚こそがなにより重要であると考え、後に共同体感覚を個人心理学の基礎とする。
  • 終戦直後にアドラーは労働者委員となり、1922年(52歳)に世界で初めて、児童相談所を設立する。
  • 児童相談所を作った功績が認められアメリカで講演会を開く。以後アドラーは欧州と北米を半年ごとに行き来する生活を送る。
  • 1924年(54歳)の時にウィーン教育研究所治療教育部門の教授に就任する。
  • 1930年(60歳)に今回紹介する名著「なぜ心は病むのか」を出版する。
  • 1935年(65歳)の時にオーストリアのクーデターが起きたことをきっかけにアメリカに家族と一緒に移住する。
  • 1937年(67歳)の時に講演に回っている最中のスコットランドにおいて、散歩にでた直後、意識を失いそのままこの世を去る。
  • 遺体はスコットランドの火葬場で火葬された。遺骨の所在は長らく不明であったが、2009年に同斎場にて見つかり、国際心理学会の協議を経て、ウィーン中央墓地に名誉改葬された。

 

自作の語呂合わせ

192 2

いくにーにと世界初の児童相談所

1937

いくさなくなれ祈るアドラー死去

 

本編 アドラーの豆知識集

小さい頃、病弱だったアドラーにとって、優秀で、健康でもあった兄は尊敬しながらも、ライバル関係にありました。しかし、長男であった兄は、家業の穀物商を継がねばならなく、ギムナジウムを中退するなど自由に自分の人生を決めることができなかった兄は自分の夢を叶え医者になったアドラーを憎んでいました。

アドラーの父親は子供たちの自由を尊重していて、子供を罰することもなければ、溺愛することもないという民主的な環境で育ちました。なのでアドラーが権威を嫌い、誰とでも平等に接していたのは父の影響が少なからずありました。

アドラーの母親に対する最も古い記憶が「弟が死んだ時に母親が笑った。」というものだったため幼い間、アドラーは母親を冷徹な人間として長い間嫌っていました。しかし、それは誤解であることが分かり「母は私たちを平等に愛してくれていた。」と、訂正しています。

  •  妻ライザとの恋

1,897年(27歳)の時に勉強会で出会った妻ライザ・ティモフェヤーニャ・エぷシュタインは、色白で小柄で賢く、意志の強い女性でアドラーは一目ぼれでした。その後、アドラーは情熱的な恋文を1年に渡って書き続け、そのままゴールインしました。

  •  妻さえいれば大病も治る

63歳(1933年)にアドラーは大病に掛かり入院しました。瀕死の状態でしたが、妻と娘の必死の介護によって、見る見るうちに、病気が回復していきました。妻に対する気持ちは30年以上たった頃でもかわりませんでした。

アドラーオーストリアから渡米を決意した時にライザはアドラーに着いていきませんでした。アドラーアメリカにいる間ずっとライザに手紙を出していましたが、一度も帰ってきませんでした。(今でいう既読スルー的な)ようやくライザがアメリカに移住したのはアドラーが亡くなる2年前でした。

 

丁度半分程まで差し掛かりましたが、結構書いてしまったので前後半に分けていこうかなと思います。

 

    次回 アドラーの豆知識 後編

 

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