アルフレッド・アドラー著作「なぜ心は病むのか」を読んで①アドラーとはどういう人物だったのか 豆知識編 後編
前回のあらすじ
- アドラーは兄と仲が悪かった。
- アドラーは母が弟の亡くなった時に笑ったという記憶を持っていた為、母と仲が悪かったが、仲直りした。
- 父はとても民主的な人だった為、アドラーはそのような人格に育った。
- アドラーと結婚したライザは小柄で色白であり、一目ぼれだったため、一年もの間情熱的な恋文を送り続け、遂に結婚した。
- アドラーは63歳の時に大病にかかったがライザと娘の看病の成果もあり、瀕死の状態から回復した。
- アドラーが北米に渡米した時、ライザはついてこなかった為15年前もの間別居状態であった。
豆知識 後編
- カウンセリングを無料でする漢 アドラー
アドラーはお金に関しては必要以上に求めない人でした。アドラーはカウンセリングをする時はお金をもらうことを嫌い、お金を持っていない人には無料でカウンセリングを行うこともありました。
カウンセリングや講義でイギリスやフランス、ベルギーやオランダなどを飛び回っていたアドラーは典型的なワーカホリックでした。仕事が続いて、睡眠時間がろくにとれていなかった時も特に眠たそうにしていなかったといいます。亡くなる直前までずっと仕事をしていたアドラーは家ではほとんど過ごさず、ホテルで生活していたそうです。
60代になった頃のアドラーは世界初の児童相談所の設立やアメリカで大ヒットした著書「人間知の心理学」などで一躍有名な心理学者となりました。当時のアメリカでは最も収入がある講演家といわれ、講演やカウンセリングに向かうときは、お抱え運転手付きの高級車を使っていました。治療、インタビュー、食事会に引っ張りだこだったアドラーのスケジュールに空きはめったにありませんでした。
- 娘を心配して眠れない日々
- ハンガリー人のジャーナリストと結婚したアドラーの長女ヴァリは、モスクワで生活していました。しかし1937年(アドラー67歳)の時にヴァリが拉致・投獄されるという情報が入り、音信不通になってしまいます。アドラーは心配の為、不眠が続き、食事ものどを通らない日が続きました。これは、アドラーの死を早めた要因の一つとなっています。(アドラーの長女ヴァリはそれから何年かした後政治的嫌疑で逮捕され、シベリアの強制収容所で死亡したことが確認される)
- 子供の自由を尊重し、勇気ずけた
アドラーの次女アレクサンドラは数学が苦手でした。しかし、アドラーの勇気づけにより数学が得意になりました。また当時10歳であったアレクサンドラもアドラーと仲間との議論に参加させました。子供を対等な立場として尊重していたのです。後にアレクサンドラはトラウマ(PTSD)の研究家として活躍し、2001年に99歳でその生涯を終えました。
アドラーに関する豆知識 後編
完
アドラーとはどういう人物だったのか編
完
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