アルフレッド・アドラー著作「なぜ心は病むのか」を読んで①アドラーとはそういう人物だったのか後編
前回までのあらすじ
- 1902年(32歳)フロイトに誘われてウィーン精神分析協会に入る
- 1910年(40歳)にウィーン精神研究会の議長に就任する。
- この頃からウィーン精神研究会が拡大し、色々な派閥ができ、対立が激しくなる。
- 1911年(41歳)にウィーン精神研究会を、同じく研究会に所属していた9名と共に退会する。
- 同じく退会した9名と共に自由精神分析協会(後に個人心理学学会に改名)
自作の語呂合わせ
1902
いこーにゅうかいウィーン精神分析協会
1911
いくいいとこに退会した9人と共に自由精神分析協会を設立。
本編 大戦~ある晴れた日の朝
アドラーは個人心理学会を設立してから1912年(42歳)の時に「神経質について」という本を書き上げるなど、精力的に活躍していたのですが、1916年(46歳)の時に軍医よして従軍し、主に神経症患者を治療していく中で、アドラーは共同体感覚(チームで1つになる。などの一個人として自分を考えるのではなく、チームの一員として、自分を考えること)が大事だと考え、大戦終了後に共同体感覚を個人心理学の基礎にする一因となりました。
戦が終わり、混乱しているオーストリア(大戦に負けたり、色んな派閥が出来たり等々)を立て直すために、アドラーはウィーン1区(中心部)の労働者委員(今でいう議員)に就任して主に教育改革に力を入れていきました。主な活躍としては、1922年(52歳)の時に設立した世界で初めての児童相談所です。これによりアドラーは革新的な心理学者として名前が知れ渡りました。その他にも教師や親などに心理学の知識を教えて回るなどの色々な功績を残し、1924年(54歳)の時には、ウィーン教育研究所治療教育部門の教授に就任しました。
そして、その功績が認められ、遠くアメリカに招かれたアドラーは1926年(56歳)の時にアメリカに初めて訪れ、心理学の講演を数か月行い、見事大成功を収めた。それ以降アドラーは欧州に半年、北米に半年という、多忙な生活を送ることとなった。その中で1930年(60歳)に書き上げた名著が本作「problems of neurosis」日本語名「なぜ心は病むのか」です。その他にも「生きる意味」1931年(61歳)なども書き上げました。
その後、1935年(65歳)遂にアメリカに家族と共に移住しました。移住した理由としては主に、オーストリアでクーデターが起きたことなどがあります。
1937年(67歳)アドラーはヨーロッパを回りながら各地で講演会を行っていました。その日もアドラーはスコットランドのアバディーン大学で講演会をする予定でした。アドラーは朝食を食べ終わった後、ホテルから散歩に出かけた直後、意識を失い、病院に搬送される救急車の中で息を引き取りました。
遺体はスコットランドのエディンバラ郊外のウォーリストン斎場で火葬されました。遺骨の所在は長い間不明でしたが、2007年(アドラー生誕137年)に同斎場で骨壺が発見され、2011年(アドラー生誕141年)に国際個人心理学会の協議を経てウィーン中央墓地に名誉改装されました。
大戦~ある晴れた日の朝
完
アドラーの歴史
完
次回 番外編 アドラーの豆知識
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