アルフレッド・アドラー著作「なぜ心は病むのか]を読んで①アドラーとはどういう人物だったのか中編
前回はこちら!!
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心理学偉人紹介第二段はこちら!!
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前回までのあらすじ
- アルフレッド・アドラーは1870年にオーストリアハンガリー帝国(現在のウィーン)で生まれた。
- 六人兄弟の次男で体が弱かったのと、弟が一歳の時に亡くなったのが起因して医者の道を志した。
- オーストリアのウィーン大学に入学
- 卒業後はウィーンで眼科、後に内科の診療所を始めた
- 診療所の近くに遊園地があったのでそこの曲芸師や大道芸人などが多くきたため、ある傾向がみられ、それが後に「器官劣等性」のアイディアとなった。
- 1897年にロシア系ユダヤ人と結婚する。
- 1898年に初めての著作「仕立て業のための健康手帳」を刊行
- ジークムント・フロイトが書いた「夢判断」を読み、精神医学に関心を持つようになる。
- フロイトを擁護する手紙を書いたら、フロイトの主催する会に招かれた。
自作のアドラー語呂合わせ
1870
隣でいやなおとなる国に生まれたアルフレッド・アドラー(嫌な音とは普仏戦争の事である)
本編 フロイトとの出会い~決別
フロイトに会に誘われたアドラーはこれを喜び会に向かったという。この会は後に「ウィーン精神研究会」と名前を変え、アドラーも研究会の会長を務めるまでになります。
しかし、会の拡大化に伴い、会の雰囲気が、始めた当初はお互いを認め合い、今日六しながら進めていたのですが、徐々にメンバーの間での抗争が激しくなっていき、対立していきました。
そうした動きがあった中でもアドラーは同調することなく仲裁に徹していました。
しかし1911年に遂にウィーン精神研究会を退会しました。理由としては、フロイトとの考えの違いです。フロイトは心的エネルギー「リビドー」(性的欲求)により人間は行動している。という学説を展開していたのですが、アドラーは「人間はリビドーに基いて行動しているのではなく、劣等感によって行動している」と考えていました。そこで、フロイトは段々大きくなるアドラーの説の派閥に対して脅威を抱いていました。そこでフロイトは、かなり陰湿な行動をとりました。しかし、アドラーにばれてしまったのも退会の要因の一つです。
そしてアドラーが脱退した時についてきた9人の仲間とともに「自由精神分析協会」(翌年に個人心理学会と改名)を新たに設立しました。
その後もアドラーとフロイトはばっちばっちに対立していきました。その根拠にこんなエピソードがあります。アドラーは個人心理学会を設立してからずっと自分が「フロイトの弟子」と呼ばれていたのに腹を立てて、自分が同等の地位にいることを証明するためにフロイトに誘われた時の紙を常に持っていた。という話です。いやもうここまできたら逆にフロイトと仲がいいような気がします。
フロイトとの出会い~決別
完
次回 最終章 大戦~ある晴れた日の朝
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