里芋田村磨呂の心理学解説

心理学の本についてその本ができた背景や作者の事もふかぼりしつつ解説していきます。ぜひ紹介した本に興味をもっていただければなーと思っています。

若きトリックスター!?ロシア連邦(ソビエト連邦)心理学界の基礎を作ったレフ・ヴィゴツキーについて紹介!(心理学偉人紹介第三弾レフ・ヴィゴツキー)

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今回紹介するレフ・ヴィゴツキー

前話

 

さあ心理学偉人紹介第3段を始めていきましょう。今回紹介するのはロシア連邦旧ソ連)の心理学の権威であった若き天才レフ・ヴィゴツキーについてです。

彼は1896年に生まれ1937年に37歳で亡くなりました。彼のもっとも有名な功績として、発達の最近接発達領域の研究があります。それはどのようなものかというと、子供は成長するに連れて、獲得していく行動の過程についてまとめたものです。例えば音声の伴わない心の中の言葉は内言といわれます。また、これの対義語として、音声の伴う心の中の言葉を外言といいます。これが成長に応じて行動として獲得しながら成長していきます。

また、この方は後のロシア連邦の心理学に多大な影響を残していて、「神経心理学(脳の構造から心理学を研究する学問)の草分け」アレクサンドル・ルリヤや、レーニン賞(ソビエト連邦の最高賞)を受賞した心理学者アクセレイ・レオンチェフなどの後世の偉人に沢山の影響を与えました。

f:id:sakanouenotamuramaroyosihisa:20200515142240j:plainアレクサンドル・ルリヤ(1902年~1977年)

第一回心理学偉人紹介はこちら!!

 

sakanouenotamuramaroyosihisa.hatenablog.jp

 

 

歴史

子供時代

 

1896年ベラルーシポーランドロシア連邦の間)の裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、南部のホメリで育ちました。

f:id:sakanouenotamuramaroyosihisa:20200515145302p:plainベラルーシの地図。この地図の右下にホメリがある

8人兄弟の2番目に生まれ、1913年に中学を金メダル(主席)で卒業しました。

そしてモスクワ大学に入学し、法学を専攻しましたが、当時から哲学に興味を持っていた彼は法学だけでは飽き足らず、シャナフスキー人民大学にも入学して歴史と哲学を専攻しました。更に社会科学、心理学、言語学、文学、美術など広大な領域の知識を身に着け、これが後の彼の心理学の基礎になりました。1917年モスクワ大学法学部とシャナフスキー人民大学歴史科哲学科を同時に卒業しました。

f:id:sakanouenotamuramaroyosihisa:20200516143419j:plainモスクワ大学ここにヴィゴツキーは入学した。

1918年にホメリに帰って文学と心理学部の講師となり、それと同時に演劇学校で美学と美術史の講義をしました。その間もずっと勉学をし続け、多くの中学校、師範学校(教員を教育するための学校)、演劇学校に出かけ学生から人気を集めました。この頃にゴメルスキー国民教育部の演劇科の主任を務め、また、師範学校に心理学研究部を設立しています。

青年時代

 

1918年から1920年にかけて「世紀と日々」と名付けられた出版事業を開始します。しかし、紙不足を理由に出版授業を中止しました。また、この頃結核を発病しますが後に回復します。1921年から1923年において後に(1926年に出版)「教育心理学」と題する本を出版するころになる講義をホメリ師範学校で行いました。

1924年1月、レニングラード第2回全露精神神経病理学会において、ゴメリ県国民境域部の代表委員として「反射学及び心理学研究の方法について」と題する発表を行います。この直後、コンスタンチン・コルニーロフ(1879年~1957年)に招かれてモスクワに舞い戻り、心理学研究所に勤務することになります。そして本格的な心理学研究を開始しました。それと同時に教育人民委員部の障害児教育課主任も務めます。この年にローザ・スメホワと結婚し、また先ほど紹介したアレキサンドル・ルリヤと同僚になります。

心理学研究所時代

 

1925年意識の問題が唯物論(意識や精神の根源は物質にあると考えている主張。これはつまり、物が最初に生まれてから神や仏{ちなみにこの考えと逆で神や仏、つまり私たちの精神が生まれてから物ができたと考えるのを観念論という}が生まれたと考えている主張ということである。)心理学が心の確立に重要な意味を持つことを指摘。そして今までで集めた論文や、師範学校での講義の内容をまとめて「芸術心理学」とし、学位を得ます。この時結核の症状がひどくなっており、公開審査は免除となります。大学で講義をする資格を得たヴィゴツキーはロシア国内の様々な大学に招かれ講義をしました。

1926年唯物弁証法(分かりやすく言うと二つの矛盾した主張を合わせてより高度な主張を作るということ。例を挙げると、子供が「ゲームをしたい」と主張する一方で、母親が「宿題をしなさい」といった場合に、解決策として「勉強ができるゲームを買う」と、二人の意見が両方とも反映されるようにすることである。

そして弁証法的に運動する物質が精神の根源であるという考え方が「唯物弁証法」だ。前の二つとまとめてわかりやすくすると、物が最初に生まれて、矛盾が起こり、その矛盾がまた新しい高度な主張を作ることで観念が出来たという考えである。)の立場から現代心理学諸流派(成員分析学や行動心理学)の批判的検討に取り掛かり、「心理学の危機」の執筆を開始。またそれと同時期に「教育心理学」という本も出版。翌年の1927年に「心理学の危機」が完成されます。

1928年に「子供の文化的発達の問題」を発表。同じ年に「学童期の児童学」を刊行します。

海外生活時代

 

1929年に数か月間タンケント市の第一中央アジア州大学で、教師及び心理学者に

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対する訓練と講義を行います。またこの時ロシア精神分析協会に入会。

「児童期における随意的注意の発達」を出版。

少数民族の児童学に関する科学的研究活動計画についての問題」&「青年期の児童学」を刊行。

1930年「行動の歴史に関する試論」をアレクサンドル・ルリヤと共著。この年から翌年にかけて、「思春期の児童学」を刊行。

1931年ヴィゴツキー精神病理学の研究の必要性を感じ、心理学の教授兼医学部生となった。「障害児のための発達診断および育児相談」、「高次精神機能の発達史」を執筆。1931年~1932年ルリヤと共にウズベキスタンで認知過程の形式の歴史性と構造変化を研究した。

その後ウクライナ神経心理学研究所に新設された心理学部門の要請に応じて、ハルキウ市に活動の拠点を移す。

f:id:sakanouenotamuramaroyosihisa:20200516130050p:plainハルキウ市の位置。赤い点の部分にある。

1933~1934年に「年齢の問題について」を執筆。

1934年6月11日に結核が再発しロシアのモスクワで死亡。享年37歳。

没後、名著「思考と言語」を刊行。またこの年、ヴィゴツキーが生前執筆していた児童期における教授と認識の発達」、「統合失調症時の症状」も出版されました。

まとめ

  • 1896年ベラルーシの裕福なユダヤ人家庭に生まれる。
  • 1913年に中学を金メダル(主席)で卒業し、モスクワ大学で法学を学ぶが、哲学に興味を持つようになりシャニャフスキー人民大学にも入学する。
  • 1918年ホメリに帰り、文学と心理学の講師をしながら勉学を励む。
  • そこから1925年まで様々な論文や本を執筆する。
  • 1925年にコンスタンチン・コルニーロフに誘われて、モスクワの心理学研究所に入所する。その時にアレクサンドル・ルリヤと同僚になる。
  • 1929年にウスベキスタンのタンケント市に赴き、研究を行うようになる。
  • その後ウクライナハルキウ市に拠点を移す。
  • そこから1934年までに論文を沢山挙げるが、昔発祥した結核が再発し6月11日に亡くなる。
  • 没後に発表した「思考と言語」が有名になり、現在もヴィゴツキーの思想が受け継がれている。

フィリップ・ジンバルドーの語呂合わせ

「前回のブログで紹介したフィリップジンバルドーの歴史を覚えたいけど年代覚えるのが難しすぎてむりぽよー」という人の為に自作ですが語呂合わせを用意しました。ぜひご覧ください。

※前回のフィリップジンバルドーを見ていない人はこちらをチェック!!

 

sakanouenotamuramaroyosihisa.hatenablog.jp

       193 3

①お腹からでていくさっさとフィリップジンバルドー誕生。

 1971

いくないっせん超えたところへスタンフォード監獄実験。

 

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あとがき

 

 

今回は「心理学のモーツァルト」との異名を持ったレフ・ヴィゴツキーについて紹介しました。彼は小さい頃から天才でありましたが、大学を同時に二つも入学し、卒業後も心理学の講師をしながら自分も論文を挙げるという、努力も出来るスーパースターだったのです。だからこそ若くして亡くなってしまったのが非常に悔やまれますね。しかし、前述しましたが彼の思想は後のロシア心理学界に多大な影響を残しており今でも議論されるほどなのです。そのことを皆さんにもぜひ知っていただきたいです。

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